一目置かれる

 朝起きても寒いのでなかなか寝床を離れられない。 今日も6時過ぎに目が覚めたが、布団の中でうじうじしているうちに再び眠ってしまい、起きたのが7時半ごろだった。 この地区の小学生たちは朝の登校が早く、オフが朝飯の用意をしているキッチンの前を7時15分ごろ家の前を集団でガヤガヤ登校していく。 今日は子供たちより遅かったなぁと思っていたが、今日は祭日で学校は休みの日だったと気が付く。
 隣の家の人が、近所の地図をかいてくださった。 それには各家庭の名前を書いてある。 だいたい三十軒ほどの家の戸主の名前が書いてあるが、その内三分の二ほどみな同じ姓で、高見というのである。 元のここの家も高見で、ここの家の東西南北の家もみな高見という姓である。
 ここの家の前で道が左右に分かれていて、左側へ行くと家が三十軒ばかりあって最後は行き止まりである。 右側へ行くと、以前嫁さんが道路標識を見てこんなところにも善光寺があると、読み間違えた、普光寺という天台宗の古刹がある。 その裏山全体が修験道の道になっていて、ぐるりと尾根伝いに一回り出来る登山コースになっている。 日曜日などたまに中高年の夫婦の人たちが、登山のスタイルでゆっくり歩いていくのを見ることがある。 その内にオフも閑を見つけ一度、山並みをぐるりと一回りしてこようかと思っている。


 先日壁落しをしたが、チェーンソウでヌキを切る時に何度か隠し釘を切ってしまった。 前の八千代の工具屋へ目立てに出したのだが、主人の対応が以前とガラリと違う。 狭い町であるから何処で誰が何をしている、という話はすぐ伝わっているみたいで、以前だと、お前さんは正式な大工でもなさそうだし・・・何処の馬の骨だ、と言うような態度が時々見えていた。 オフが手掛けていた八千代の家がすぐに売れたことをすでに訊いているのだろう、今はあからさまに一目置くという感じがする対応である。 それは前利用していた材木屋へ行った時も同じであった。
 まあ、実績が信用を造るということだろうが、これがもし次の仕事でつまづくと、たとえ貸し倒しなどしていなくても、人々はまた前の態度に戻るのだろうと思う。 この年になると、それを一々どうこうと言うつもりはないし世間とはそういうものだ、と痛いほどよく分かっているつもりである。
 新しい土地だからそんな噂話とは関係ないだろうが、今度の加西の材木屋は二、三度材を買っただけだが、支払いは今度でも良いですよ、と言ってくれる。 材の挽き割りなども快く応じてくれるし、やはり人というものは気は心である、ここの材木屋からは出来るだけ買おうとついつい思ってしまうものである。
 

 今日の仕事


 二間の幅がある元押入れは新しく和室の一部となる。 だが畳敷きではなく、畳なら五枚縦に並べた細長い箇所だがフローリングにした。 そこに野地板を捨て張りして、桧のフローリング材を順次ビスで留めて行く。