「アサッテの人」

 今日で8月も終わりだが、今年は暑い8月だった。 現在台風9号が太平洋上にあるが、8月は太平洋気圧が日本を覆っていたせいか台風が一個も本州付近へ近づかず、その内何個かがフィリピンから台湾、中国付近でウロウロしてた。 そういえば明日から三日間、富山の八尾でおわら風の盆だ。 この頃は日本海側はフェーン現象でメチャ暑いか、激しい雨が降るかなのだが、どうやら今年は北の高気圧圏内で涼しい中で催されるようだ。 

 
 先日神戸へ行った時嫁さんのところから「文芸春秋」を持って帰ってきたが、中に芥川賞受賞作品が掲載されていて昨日それを読んだ。
 諏訪哲史氏の「アサッテの人」というのが今回の受賞作品である。 この作品は内容は文学作品としては一風変わったテーマを扱っていると思うが、受賞作品よりも芥川賞を選考する9人の選者のコメントの方が面白かった。 選者は以下の人たちである。 小川洋子川上弘美池澤夏樹石原慎太郎高樹のぶ子村上龍黒井千次宮本輝山田詠美という、まさに今をときめく人もいれば、書き尽くして今は枯れ木のようになっている人で構成されている。 女性選者全員は受賞作「アサッテの人」を推挙していて、男性選者の内、石原、村上、宮本氏はまったく評価していなかった。
 文学作品というのは、作者の意図などとはまったく関係なく、読者がどのようにでも受け取り、また解釈することは自由なものである。 だから、当然、書かれた作風について、あるいは作者の人柄や人格について好き嫌いなどなどがあっても当然良いのである。
 でも選者はたんなる読者ではない、選者として臨む以上好き嫌いは別として、作品の内容を少しでも理解しようとする努力ぐらいするのが当たり前である。
 結論から言えば、この作品の作者はオフの嫌いなタイプの人ではない。 作家として今後も書いていける力は十分持っていると思える。 当作品もまあまあ面白い。 よってオフもこの受賞にはまったく異存はなく、受賞は妥当であり、賛成である。 
 

 さて、この作品の内容だが・・・これがいささかややこしい。 
 私には今は行方不明になった叔父がいて、その人がアサッテの人、つまり変人なのである。 どう変人かと言えば、日常会話の中で、突然ポンパを挟むのである。 いきなりだが説明するとポンパというのはタポンテゥーでもあり、時にはチリバッハでもあるのだ・・・と書いても何のことかサッパリ分からないと思うが・・・そんなおかしな人が私の叔父であり、アサッテの人なのである。 
 さてさて、このアサッテの人を主人公にして「アサッテの人」という作作品を作者である<私>は書こうとしている訳である。
 何をどう書いてよいか分からず<私>は何回も書き直して書きあぐねているわけである。 これだけですでに文学的でワクワクするような話と思えないようでは、この作品を読み続けても面白くもクソもないだろうと思う。


 村上龍は、選評でこう書いている≪退屈な小説だったからだ≫と・・・宮本輝は≪言語についてのある種の哲学的な論考が、私には所詮観念にすぎない思考の遊びに思えて受賞作には推せなかった≫・・・石原慎太郎は≪作者の持って回った技法は私には不明瞭でわずらわしいものでしかなかった≫と書いている。
 それでとどめておけば良かったのに石原はさらに≪最後に「読者への便宜を図るため」として「叔父の肉筆によるオリジナルな平面図」なるものを付記しているのは、作者の持つ言葉の限界を逆に露呈しているとしかいいようがない≫ とわざわざ書き加えている。 
 いかに彼がこの作品の面白さのみならず、そのテーマ含めて話の内容をまったく理解していないかを、はからずも読者として理解出来ていないことを逆に露呈しているとしかいいようがないのである。
 これにとどまらず、さらに石原は、大先輩として苦言を一言付け加えたかったのだろうが、 ≪修練された言葉の持つ余韻の大きさを、作者はやがて知るべきだろう≫ などとわざわざ書き加えている。 まったくもって、おい、おい、おい・・・なのである。 


 以上のような経過があって、オフはこれまでの芥川賞と選考委員達の選評を載せた本が出版されれば、それこそ今オフが一番楽しく、下世話に読める本になるのだがなぁ・・・と思ったのである。


 これから神戸の嫁さんとところへ行く。 その後ちょっとした用がであって田舎へしばらく帰るつもりだ。
 なお「アサッテの人」については、アクさんが以下でその感想を書いているが、興味がある人はどうぞ・・・


 http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2007/08/post_0be0.html