川上弘美著 『真鶴』
昨夜、川上弘美著の『真鶴』を読み終わった。
普通ならこのような本は一日で読み終わってしまうと思うが、かれこれ一ヶ月ほど掛かって読了したことになる。
川上弘美の作品は『溺レる』あたりから急激に密度を増して来て、高い密度のまま一体何処へたどり着くのだろうか? と読むたびにハラハラしながら強い期待が高まっていたのであるが・・・この作品で『溺レる』で提起された問題について彼女はようやく一つの区切りを与えたようだ。
ずばり名作である。 戦後の女流作家の作品の中ではまちがいなく最高峰であると思う。
内容について書きたいことは沢山あるが、ネタバレさせないで書くのはかなり難しい。
ネタバレなしにこの作品を一言で語るなら <愛という執着が客観化していくための魂の儀式を書いた>とでも言えばよいのだろうか・・・
この世の中のすべてのものごとは、巷に語られるように起っているかと言えば、いわゆる人々に言い古されたように起きていることは一つもないのである。 われわれは世のできごとを言葉をもって語りあっているわけだが、起きたものごとを語った、いうか伝えることが出来たなどと思うのはすべて幻想である。 当然のことだがこの世に起きるものごとを語りつくせることはない。 ただ、そのものごとを自分の中から発するオリジナルな言葉でもってより真摯に、よりものごとに近づこうと語ろうとするのが真の意味で詩人であり、真の意味での作家というものである。
そこにはもちろん時代の制約もある。 これまでの作家の業績、つまり作品があって、さらに一足でも先に出るところにオリジナルな作品が生まれる。 そしてその語られた言葉で、語られた物語で、われわれははじめて今の世の中の出来事やものごとの意味や形をを知るのである。 あるいは理解するのである。
川上弘美は現在の日本の作家の中では間違いなくトップを走る作家の一人である。
この作品は、よく言われる<愛の終着駅>などという分かったような分からないような言葉が巷にはあるが、そのことを真に自分の言葉で語ろうとした作品である。 それを読むことでもってわれわれははじめて言葉を与えられた、あるいは物語化されたものごとを理解するのである。
昔、俺が夕焼けだった頃、妹は小焼けだった。 父親は胸焼けで、母親はしもやけだった・・・分かるかなぁ・・・わかんないだろうなぁ・・・などと言っていた芸人がいたが、この作品も、人によってはそのような受け取り方しか出来ない訳の分からない作品かもしれないだろうが・・・(笑)
<愛>という人の成り立ちを言い表す最後の行き着く先があるとしたら・・・それは「真鶴」であり、また愛という執着から解き放たれて新たな出発があるとするならば、それもここに表現された「真鶴」なのであり。 その執着が客観化するための魂の儀式について書かれた作品、それが川上弘美著の『真鶴』であると言える。
『真鶴』を読み終わった興奮が醒めないうちに・・・今日はこれから神戸の嫁さんのところへ行く。
今日の仕事
キッチンのカウンタの下部の壁面に羽目板を取り付ける。 一見簡単そうな仕事なのだが結構手間取ってしまった。
取り付けは明日になる。