家へのこだわり

 数日前に、どうしてこんなに古民家に惹かれるのか分からない、などと書いたが、感覚としてはどうしてか分からない面があるが、背後に自分なりの考えというか、理屈はあるのだ。 なにしろオフは内向思考型人間だから、どのようなものであれ理屈を付け、それがないと行動できないタイプの人間である。
 基本的には衣食住にたいする近代の考えに対してのオブジェクションなのである。


 オフも若い頃は、ほぼ木と土と出てきているような日本古来の民家などを古臭い汚いモノとして馬鹿にして、そんな家に住みたいなどとはツユ思わなかった。 しかし、当時はピカピカと良いものに見えた工場生産された新建材は、時間と共にそのメッキが剥がれて来るものばかりであることが分かってきた。 新建材というのは新しい時が一番綺麗で時間の経過と共に汚くなる。
 分かりやすい例でいうなら、たとえば障子に貼る和紙は、新しいうちは白いが時間の経過とともに日の光にあたって赤茶けてくる。 それを昔は汚くなったと見えていたのである。 当然のことながらモノというのは経年変化をするものである。 今は赤茶けた障子紙も、それなりの美しさがあるなぁ、と見えるようになってきた。 古くからある和紙のようなものはそのようなものが多いのである。 工場生産されるもので年月が経る毎に味わいが出てよくなるものなどまずないと思ってよい。 無垢の材で作られた戸などは、時々雑巾で拭いているだけでどんどんと時間を経る毎に材の艶が出てくるが、新建材などでそうしていると綺麗な表面がはがれて来るだけである。 そうかと思えばいつまでも経年変化をしないものもある。 プリントされた天井板などは何年経ってもピカピカとしていてどこか気持ちが悪く感じる。
 それに家というものは車などと同様で、使い捨てにするモノであるというのが今の主流の考えであるが、そのツケは膨大なゴミの山となっていずれ我々に返って来るのだが、ツケは先に回すのが近代の基本的なスタンスである。


 我々は科学の力で現代文明を築いたというが、結局は石油を掘ってそれをモノに変えているだけである。 石油というのは言ってみれば過去に地球に降り注いだ太陽のエネルギーが地中に蓄積されたものである。 近代に入って我々はそれを掘り出して使って近代文明を築いただけである。 
 それは言ってみれば、タンス預金を取り崩して現代文明の栄華と贅沢を誇っているとも言えるのである。 近代ののスタンスの中身はつまるところこれであり、これでしかないのである。
 今、自分の回りを見回してみたとしても、石油がなかったらそこにありえないものばかりに取り囲まれているはずである。 今やわれわれの衣食住のすべてが石油が姿を変えたものばかりであり、あるいは石油の恩恵でそこにあるものに取り囲まれているはずである。 
 毎日食べるご飯だって極端な言い方をすれば、じつは石油を食べているといってもよいのだ。 たんに植え付けや刈り取りの時に農業機械を使いそれを動かすのに石油を使っているというだけでなく、肥料や農薬、運搬、精米などなど、苗を植えて、稲となり、米になり、それを焚いてご飯にして食べるまでの考え付くすべての過程で石油が使われているはずである。 であるから石油を米にして食べているといっても大げさな話ではないはずなのだ。 われわれは石油がなければお米も作れない、お米も食べれない社会に住んでいるということでもある。 


 話を家に戻そう。 オフは古民家が好きだといっても、まるまる古民家のすべてが好きなわけではない。 現代においては暮らしにくい面も多々ある。 そんなことについて明日にでも書こう。 今日は眠くなってきた。 


 今日の仕事

 
 トイレ外壁の羽目板の廻りに押さえ材を取り付け柱のように見せるしごとをする。 上部が壁ではなくてサッシ窓なので、柱にサッシ窓が取り付けられているように見せるための細工に結構手間取る。 塗装して取り付けは明日の仕事。 内部の柱に材を当てて接着剤の後などを隠す仕事をする。 古い栗材の柱でヌキ穴や廻り縁の跡など材を詰めるだけで済ますが、大壁にするため全体を削り落として接着剤を使ってベニヤをはっていた柱に塗装すると、接着剤の塗ってある箇所だけがガサガサのままピカピカ光ってしまう。 仕方なしに周りに薄い材で覆って木地を隠すことにした訳である。 ダイニングの天井の梁や桁を雑巾で拭いた。 この跡に明日塗装をするつもりである。