創価学会

 これは少しずつ分かってきたのだが、近所には創価学会の人が多い。 この家は創価学会の信者の家で囲まれているといってもよい。
 創価学会に限らずオフは、組織化された宗教、つまり宗教団体は嫌いである。 宗教は個人の心のよりどころとしてなら大いに認めるつもりはあるが、それが組織化されたものになるととにかく拒否反応が強く出てしまう。
 時々顔を出すこの家の本家筋のオッサンは合併する前の八千代町時代、初めて公明党公認を名乗って町会議員選挙に出てダントツのトップ当選を果たした人らしい。 何だかんだと言って来る向かいの家の奥さんも公明新聞をとらないかと言ってきたが、やんわりと断っておいた。 次の朝、池田大作がうそ臭く微笑んでいる顔が載っている雑誌を置いていったが、その雑誌は玄関に置いたままなので埃がかぶってしまっている。 金曜日の日には東隣の家で近所の学会員が集まって皆で楽しくやっているので淋しい時など顔を出して、と言うことだ。


 いずれにしろ現代の新興宗教は、その時々時代の流れに乗り遅れた人たちを組織化して肥大化している。 富国強兵時代には、それから落ちこぼれた人々を天理教だとか金光教など、大正になると大本教、円応教、大日本霊友会などが出てくる。 昭和になると創価学会とか立正佼成会などがあるが、とくに戦後の高度成長期の流れに乗れなかった層を創価学会は上手く取り込んで急速に大きくなった。
 そこの集まりへ行くと同じような層の人々が集まっていて、一般社会とは別の順列や価値観で包んでくれる安心感があるし、その中で頑張れば内部での階段も上がり、さらに組織自体が大きくなることに自分の自己拡張、ひいては自己実現をも重ねあわせもするようになっている。
 おそらくここの家の元の持ち主も創価学会の会員だったのだろうと思うが、どんな信仰を持とうと現実は信仰とは無縁の動きをするもので自己破産する時はするのである。 当たり前のことだが現実的利益と信仰は関係ないからである。 そのあたりのことは内部の人たちはどのように説明されていて、どのように納得しているのだろう。 部外者としてはそのあたりのことに下世話な興味がないわけでもないが・・・

 
 今日の仕事


 二階の天井に下からの押さえ材をとめた後、残っていた壁下地のボード張りをする。 天井を上げた部分の下地は午前中で終わり、午後からトイレを作るために壁を落とした箇所にヌキをあて、そこにも両面からボードを張っていく。 化粧ヌキを一本取り付けるが、それの塗装をして仕事を終える。 明日は床の間に地袋を造りつける予定だ。