キジハタ

 昨日から降っていた時雨は朝には上がって、昼前後には日も差してきた。 日が差すとこの時期でも外部の空気を入れたくなり部屋の戸を開けて仕事をする。 天気予報によるとこの先明日の夕方から雨になり夜には雪に変わり月、火曜日は雪でマークが出ていている。
 まだ二、三日はなんとか食材はあるが、とにかく今日のうちに買いだめしておこうと買い物に出かける。 魚、牛肉、豚肉、鶏肉、納豆、豆腐などを万遍なく買って、この先一週間はじゅうぶん持ちそうである。 魚はキジハタを買った。 三十センチほどの大きさで500円である。もうチョイト大きければ脂が乗って鯛や平目にも負けない刺身良し、焼いて良し、煮て良しの美味しい魚である。
 

 神戸で嫁さんと先に見た映画について話していた時、途中で彼女はしょんぼりとしてしまう。
 たとえば男と女は長く一緒に暮らすと相手の中の暗闇の部分、じゅうぶん分かっているのだが決して共有できない、あるいは踏み込むのをためらう、というか踏み込んではいけないある部分、言ってみれば開かずの間みたいなものの話になると、彼女は決まって打ちひしがれてしまう。
 そこにオフと前の妻の関係を見てしまい、自分には決して踏み込めない世界があること、あるいはそこにちらつく先妻の影を見てしまうからだろう。
 また自分には男と一緒に暮らした長い時間がなかったことを悔やんだりするのだが、しかしそれはそのような経験とか体験とかの問題ではないのだろう。


 現代のこのような問題に挑んだ小説に村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』があるが、あの小説の中でも結局自分の穴の中、あるいは心の闇へ深く入り込むことでしか行方不明になった相手を知りえる手立てはないのであり、その自ら降りていった深い穴の中でかろうじて相手の苦悩にたどりつける方途が見つかることもあるのである。
 あの小説のように、時には夢の中に突然事実が立ち現れ、理解できることがあるかもしれない。
 人はいつもいつも漠然と夢を見るわけではない。 フロイト流に言えばその夢の背後に膨大な無意識があり、その膨大な無意識の中から何かを選び出して来るとしたら、それに先立つ繰り返す深い思考とか、苦悶とか、深い思いの果てに・・・ばらばらな事実の中から<物語>を無意識に選び出してくるのである・・・それは同時に村上にとって書く事の原点への遡行でもあり、そこからこそ今まで一度も語られたことのなかった<物語>が立ち現れてくるのだと思う。



 今日の仕事

 天井仕事はやはり手間を食う。 昔は縁側だっただろうと思われる茶の間の窓際の二坪ほどの天井、今日で終了出来ると思っていたがなかなか進まない。 横に走っている梁が曲がっていたり、段差があったりしてとにかく仕事がしにくい。 それに下から上に向かっての仕事は材を支えての仕事になるから何かと面倒なのである。 こんな時一人仕事の悲哀を感じる(笑)
 化粧した野地板を片側から揃えるための受け材を取り付けるだけで午前中が終わった。 その後、細小舞をなんだかせせこましい感じがするので中三本のところ中二本に減らして取り付ける。 このため一枚の野地板の継ぎのところが狂い、残っていた板でやり変える。 次は垂木だが、両端の垂木は柱や見切りの材との取り合いが面倒で両端の二本を作るだけで今日は終わってしまった。