記号化

 すでに入梅しているのだが、そうでないような、またそうであるようなあいまいな天気が続いている。


 横浜のランドマークタワーで子供たちと食事をしているちょうどその同じ時刻に、東京の秋葉原では無差別の殺戮が行なわれていたことを知った。
 似たような事件は、アメリカを始めヨーロッパなどでも若者の銃の乱射という形で頻発している。
 その都度(殺す相手は)誰でもよかった、という言葉が言われるのだが・・・相手が具体的な怨恨の対象でない状態で人を殺すというのはかなり難しいことなのに・・・と思う。
 たとえ相手が見ず知らずの人間だとしても、少なくとも相手に「異教徒」ととか、「テロリスト」とか、「国賊」などのレッテルを貼って殺すのはまだやすいだろうが・・・
 これまでも精神を病んだ人が、殺せ、という幻聴などをを聞いて本人すら意味不明のまま目の前の人を殺戮するということはあったが・・・正常と異常のその線引きすらがあいまいになって来て、と言うか、なくなりつつあるような人間の状況が世界的に起きてきている気がする。  社会が脳化を加速すればするだけ、人と人との絆も希薄になり、その分病理も加速されるというのは間違いないだろう。 


 内田樹氏は、そのブログの中http://blog.tatsuru.com/で、


 ≫他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。
だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する≪ 
 
 ≫今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。「無差別」とはそういうことである。
ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない≪


 ≫「記号に読み替えられたことで死んだ死者たち」については、私たちもまたそれを「記号として扱う」ことを強いられるということである。
私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができないという「出口のない状況」に追い詰められているのである≪

 この事件を考える時に<やるせない>思いだけがつのって来て、人々が何かを物差しにしてこの事件を語っていても、語られる後からより本質的なものが次々に零れ落ちてしまっていくような<むなしい>感じだけが残ってしまう。 

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ


 自分でも、甘いだろう、と思いながら・・・どういう訳か宮沢賢治のこの美しい詩のフレーズだけが頭の中で何度も何度もこだまする。
 

 今日の仕事


 姫路の家のガラクタを美化センターへ運ぶ。