映画 「インランド・エンパイアー」

 久しぶりの日記である。
 先週初め神戸へ行きその後一度帰るつもりだったが、そのまま神戸に滞在して週末には東京へ出掛けて子供や孫に逢って来た。
 オフが田舎に定住していないので、子供たちとは年に一度ほどの上京の時に会うぐらいになった。 これまでも横浜の中華街や品川などで三人いる子供たちと逢って、個室でオフとしてはやや豪勢な食事をしている。 今回は嬉しいことにその集まりに長男の嫁と二歳になる孫も加わって総勢六人となった。 三人いるオフの子供たちは、それぞれ健康で、めいめいが仕事を持ち、何とか自分で食って首都圏下で生活している。 これだけでもありがたく、こんなにうれしいことはないものである。

 今回は恵比寿のホテルの一室でステーキを食べることになった。 相変わらず東京はどこへ行っても人が多いが、はじめて行く恵比寿のガーデンプレイスは適度に人はいたが、さはど混雑していなかったこともあって良い印象が残った。 


 食事の前に近くのガーデン・シネマというところでデビット・リンチ監督の「インランド・エンパイアー」を観た。 
 今回もリンチ監督の映画の初回見終わった直後の感想は「ぜんぜん分からなかった???」という情けないものであったが、題名の直訳が<内なる(心の)帝国>と言うことだと訊いて、あっ!そうか!とこの映画のストーリィを読み解く重要な鍵を手にしたような感じを受けた。
 それは人と言うものは、どうであれ現在のここにいる自分を自分で理解するための自分の物語を必ず心の中に作り上げているものである。 それをたとえば<内なる心の帝国>と呼ぶならば、その帝国が何かをキッカケに齟齬をきたす、あるいはつじつまが合わなくなって崩壊を始める。 なぜならばその心の帝国というのはその物語にそぐわないものを意識的に切り捨て、また実際にそうでなかったことまで都合よく作り上げて構築されている<嘘の物語>であるからである。 つまり人は意識しないまま、かなり良い加減に、恣意的に自分の都合が良いように、自分の嘘の物語を作り上げているものであるからである。 その物語の崩壊と、その嘘の物語からの解放、この映画は、現実と入れ子細工のように複雑に、つまりワザとややこしく作られている。 それは映画を見る人に、あえて考えることを強いるためであることは明らかである。 そしてその心の帝国をオフをしてさらに分からなくさせていたのは、今回この心の内なる帝国の物語が女の物語、つまり女が主人公の心の物語であったからなおさらだったと思っている。


 それとは別にリンチ監督の映画を観た時はたいてい最初は全体が分からないままなのだが、部分部分の映像の中に強く印象に残る場面が何箇所かある。 今回も主人公の女性がドライバーで腹を差されて倒れる場面があるのだが、息を引き取る時の場面が強い印象として残った。 そこには夜のアメリカの街頭で黒人に抱かれたままおしゃべりする若くて華奢な日本人らしい女性が出てくる。 この場面はややこしいこの映画の中では恐ろしいほどリアルで、現在の突然の見ず知らずの人の死を前にした時の若い現代人のとる様子、つまり現在の生と死の位相を鋭くえぐり出し、それを映像として描いて見せていたと思う。