大木ユリさんの死を悼む

 昼飯を食べてPCの前に座っていると電話が鳴った。 出ると嫁さんで、また調子が悪いのかなぁ・・・と思うと、彼女の高校時代の友人の大木ユリさんが亡くなったとの知らせだった。


    大木ユリ・・・http://www.jspanish.com/school/yuri-ooki.html


 今年の1月20日に発表会を控えていたが、お正月は明石市の実家へ帰るという話だった。 嫁さんにも明石市の実家に帰った時は連絡するわ、とメールが入っていたと言う。 ところが正月以来連絡がないのでお母さんが心配になり、所沢市へ行ってみると家の中で倒れて亡くなっていたと言う話だ。 急に身体の調子が悪くなりニトログリセリンを取る間もなく行ったのだろうか・・・

 大木ユリさんはフラメンコの踊り手であり、日本でのカンテというフラメンコの歌謡の歌い手では第一人者であった。 オフも二度ばかり逢った事があり、昨年の秋に神戸の北野でお弟子さんを引き連れてミニ公演した時に観に行った。 その時は何と言うか・・・傍へ寄るのも怖いくらいな・・・この世のものとは思えないような恐ろしげな形相だった。
 じつは彼女は全身ボロボロ状態で生きていたのである。 肝炎というのはよく訊くが、膵臓(スイゾウ)がウイルスに犯されているウイルス性の膵炎だったが、これは昔スペイン滞在中に感染したという話である。 それに狭心症で心臓にはペースメーカーを入れていた。 さらに糖尿病でインスリンの注射器が放せない身であった。 にもかかわらずへビィスモーカーというかチェーンスモーカーに近かったし、その上に酒も飲むという話であった。 神戸の北野での公演の日に恐ろしげな形相をしていたのは、前日いろいろな事情で一睡もしていなかったかららしい。
 
 彼女と初めて逢ったのは淡路島であった。 この時は穏やかな表情を見せていた。
 嫁さん他二名の高校の女友達と5名で淡路島のホテルで食事をした。
 その日の相手がオフを除くと同級生と言う気安さもあったのだろうが、すっかり高校時代に戻ったような調子で主役になって話しまくっていた。 
 ダンナがいつの間にか飲み屋の中国の女と出来ていて、二人の間に子供まで生まれていて、その女が認知しろと家へ来るまで知らなかったのよ・・・と友達を前にして飾ることなく自分のドジな話で笑わせていた。  高校時代はまわりからとんでもないズべ公に思われていたが、じつはイケ面男の追っかけしているようなうぶな所があり、話の中にはそんな子供じみた単純さで生きているの?嘘だろう・・・と思ったり、笑ったりすることがしばしばあった。 だが、それが彼女の偽わらざる<地>だったろうと思う。 反面、情熱の歌と踊りのフラメンコそのものの激しさを生き方をした人でもあったわけだが・・・これもまた彼女の<地>であり、これだけは誰にでも真似ることができるものではなかったものである。
 フラメンコを難しいとか思ったことはないわ、すっと自分がそこへ入って行けたのよ・・・だから学ぼうと特別に努力したり、苦労したりした記憶は私にはないわ。




 今日の仕事


 左官屋が来たので二階の倉庫に電気をつけようとするが点かない。 和室から違う照明器具を外して持って来ても駄目である。 天井コンセントが悪いのかと外してみたりしていて、入り口横にスイッチを取り付けていたことを思い出す。 倉庫の隅に昨日何本か作って塗装しておいた巾木を留める。 それに土壁が落ちて穴があいていた箇所を二箇所ボードを大きさに切って塞ぐ。 後は左官屋にお任せである。
 二階の各部屋に二度目の塗装をする。 左官屋が倉庫の下塗りが終わったのでリビングの下塗り掛かると言うので、オフは一階の和室の柱や回り縁、長押などに一度目の塗装をする。 たかが塗装といえど二階と和室だけで二度塗りを終えるには後三日は掛かりそうである。