勝者の歴史

 沖縄戦で「集団自決」を日本軍が強制したとする表現を教科書検定で修正された問題で、検定意見の撤回を求める超党派沖縄県民大会が29日、宜野湾市海浜公園で開かれた、とのニュースがあった。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070929it13.htm?from=navr


 歴史とは何か、ということを考えさせる問題である。
 われわれの自我はどうあろうとも自己を正当化させたいという欲求を持っている。 それは生命というものの成り立ちに由来することでもある。 生命というのはたとえば原始的なアメーバァのような生き物でも、自分達がどんどん増殖できるところからは動かないが、逆に減少するようなところからは少しでも遠ざかろう、遠ざかろうとする行動を起こす。 生命の行動の基準は大まかに言って、それが心地よいか、心地よくないかという一点に因っているようところがある。 コンピュータが0と1で動いているとするなら、生命はその行動の基準は、心地良いか、心地良くないか、だけであり、それを基本的な基準にして動いているといっても言い過ぎではないような気がする。
 さて、人間だが同じ生命といっても脳が発達していて、他の動物のように本能のまま行動している訳ではない。 その行動基準は、これはあくまで比喩的な表現だが、いわば生命の生命たる基本的なものを脳にいったんコピーして、そのコピーをモトに自我を造っている、と言うこともよいような気がする。 


 昔から歴史とは勝者の歴史である、というのはよく言われていることである。
 どうあろうとわれわれは自分が今あることはもちろん、自分たちが過去になしてきたこと、さらには遡って自分たちの親や先祖が過去になしてきたことを肯定したいという欲求を持っている。 そうしたいのは自分の自我を安定させたい、という基本的な欲求があるからである。
 まして自分が現在の世界の中で勝者の立場にあると思っているような人たちならなおさらである。 オフは歴史とは事件や事実の羅列ではなくて人が作った物語以外の何ものでもないと思っている。 どうあろうとそこに判断や考えが挿入されなければ、目の前で起こった事実や事件は言語化されないものであると考えるからであるが・・・。
 またまた話は飛ぶが、人の自我は過去と未来をと現在というものの中に住みどころを置いた時点で、自分の住みどころを歴史の中に位置づけたいという欲求も持つたのだろうと考える。 そこからどんどんと過去に遡り自分のルーツを探りたいという欲求も持つ。 われわれの過去、日本人のルーツ、世界文明の始まり、人類の誕生、そして生命の発生から宇宙の成り立ちまでを知ることで、ここにあることの確たる安定、安心を自我が求めている訳である。 それに自我は、時間を知ったことで、将来自分の身の上に死というものがあることも知ってしまった。 同時に自分が死んでそれですべてが終わりではないことも知ってしまった。 自分が死んだ後も歴史は続くことを知っている、これほど自我にとって恐ろしいことはないのである。 そこで自我は死に幻想を求めるのである。 自分の死の後に連綿と続く子孫の生命はもちろんだ。 それ以上に幻想の中で死ぬ自分はその幻想を通じて永遠につながることを求める。 その幻想とは、たとえば家族であり、国家であり、信仰であり、愛など・・・であるのだが・・・。 すなわちそのような目に見えないような、言ってみれば訳の分からないようなもののために、時には人は死ぬことを厭わないのである。 そのような幻想に包まれて死ぬことで自我が永遠と繋がることを求めて自分の死を越えて安定したいのである。
 話はとんでもなく遡ってしまったが、ちなみに以上の考えはオフの思考の基幹の部分なのであるが・・・。


 さて、ここらで沖縄の問題に話を戻さなくては・・・アメリカでは日本に原子爆弾を落としたのは、戦争を一日も早く終結させてこれ以上のアメリカ人の犠牲者を増やさないためである、と教科書などにも記述されていて、大多数のアメリカ人はそれを信じているらしい。 これは何年か前、スミソニアン博物館に日本での原爆の惨禍を展示するかどうかで問題になった時に明らかになったことである。 もちろん事実としてそのような面もあっただろうが、その薄っぺらな物語はそれだけではすべての人々に受け入れられるものではない。
 今年日本の防衛省の初代の大臣の久間章生氏が、原爆投下はしょうがなかった、と発言して物議をかもして彼は大臣の職を辞任したことがあった。 これもおおむねアメリカの史観に添った考えからの発言だろうと思う。 それ以前に久間氏は沖縄の基地移転の問題で米軍とギクシャクしていたからリップサービスのつもりもあっただろうが。 だが、これがいちがいにとんでもない大間違いな考えだということも出来ないと思うが、そのあたりに過去の歴史の物語りの微妙で難しい面がある。 だが、日本にはそんな発言をどうしても承服できない素朴な感覚や現実的な痛みががまだまだ人々の心や身体に残っていたのだ。 われわれの側に勝者に抗しても、それに組しない歴史を残していく根拠があるとするなら、まことに心細い話だが、人々のそのような素朴な感覚や、心や身体の痛みを忘れないでいようとする考えを想像力を働かせて持ち続けることでしか出来ないのだ。
 また、勇気をもって以下のような発言をして、自分が目の当たりにした事実をキッチリ残しておくことでもある。


 沖縄戦の際、渡嘉敷島(とかしきじま)で「集団自決」の現場にいた吉川嘉勝さん(68)は、米軍の上陸後、雑木林の中で両親や5人の兄弟とともに日本軍から配られた手榴(しゅりゅう)弾で自決しようとしたが、その手榴弾は爆発しなかった、と語った上で (知らべると)集団自決が起きたのは日本軍がいた島だけだった、と指摘。 そのうえで、「日本軍の関与がなければあのような惨事は起こらなかった」と訴えた。


 従軍慰安婦問題でも、戦後レジームの見直しを言っていた安部首相が、アメリカの議会で日本への謝罪要求決議がなされて以来急に尻つぼみになってしまったが、文部科学省も安部首相の戦後レジームの見直しの流れで、集団自決に軍が関与したという記述の修正したのだろう。
 

 またまた話は飛ぶが、子供の頃オフは日本が第二次大戦で負けたことが事実と知っていながら、心のどこかで承服できなかった。 とくに世界最大の戦艦大和が戦争末期に二時間弱の戦闘の末あえなく沈没したという事実もなかなか承服できなかった。 それは当時子供のオフの自我が日本という国とかなり同化した形で形成されていたからだろうと思う。

 なかなか話が飛んでまとまらないが、生命の流れを含めてすべてを簡単に言えば、とにかくわれわれは自分が可愛いのである、可愛い自分の自我が心地よく歴史までもを塗り替えていくことを要求するのである。 そしてわれわれが勝者や成功者、権力者の立場にあればなおさらそれに手を貸してしまいたいと思ってしまうのである。


 歴史とは勝者の歴史である、という言葉を歴史の教科書の冒頭に書いてあるような教科書があればそれは最高だなぁ、とオフは思うのである。